12月18日、現在壁・天井の杉化粧板貼りを行っている。洗面所、トイレの天井・壁、2階階段の壁、2階納戸の壁を終え、寝室内の納戸、トイレの壁にとりかかっている。
2007年12月
12月17日、仕事の合間に萩城址の近くにある萩キリスタン殉教者記念公園に行ってみた。明治3年、明治政府のとったキリスト教弾圧政策により、長崎浦上村のキリスト教信者3800人を棄教させるため全国に流刑したが、その内300名が萩に送られ、3年間の拷問と飢えのため40余名が殉教し、その内20名がここで埋葬されたといわれている。また、この公園の中にある今年6月カトリック教会で日本の188名の殉教者と共に「福者」の称号が与えられた熊谷豊前守元直の記念碑についての案内板が先月の11日に立てられていた。
熊谷豊前守元直について、以下のように紹介されている。
熊谷豊前守元直(1555~1605)・・・あるキリシタン武士の生涯と殉教 H.チースリク著
(宣教師たちがローマ本部に送った書簡及びイエズス会年報から)
毛利(輝元)は、まずメルキオル(熊谷豊前守元直)を攻撃することを決心した。それは、もしもこの人物を打ち負かすことができさえすれば、もはや他の者たちは彼の意志にそむくことはできまいと考えたからである。そこで彼は三人の身分の高い人々を豊前殿のもとに遣わし、キリスト教を捨てて先祖のそれに従って生活するように要求した。しかし豊前殿は、勇敢に、恐れるところなく返答して、自分はあらゆることについて主君(毛利)に従い、忠誠を貫くであろうが、ただ、真の救い主なるキリストの教えだけはどのようなことがあっても棄てないし、そのためにはむしろ生命を投げ出すであろう。なおまた、もしも毛利がそのために自分の生命を召そうというのならば、刑吏たちに命じて自分を山口市中のすべての道路で三回引きまわし、この者はキリシタンであるがゆえにこの罰を受けるのだと公によばわらせてくれるように毛利に伝えて欲しいと願った。・・・(略)
使いの人たちが自分の言葉をそのまま毛利に伝えてくれるかどうか危ぶんだ彼は、毛利の秘密の相談役をしている何人かの友人に宛てて次のような内容の手紙を書いた。
「昨年の冬、何人かの名望ある人々から、私がキリスト教を受け入れたことで主君がどれほど私に不興を抱いているかを聞き知った。それゆえ私はこの手紙によって貴方がたに私の考えを説明すると共に、よい機会を見てこれを主君に伝えてくれるよう貴方がたにお願いする。十五年前、私は豊前の国において如水(黒田孝高)から感化されてキリシタンとなった。はじめのころは冷淡で不信心であったとはいえ、五年前から神の恩恵によって信心と熱心が私のうちに高まり、魂の救いこそ他の何物にもまして重大だということを、ますます理解するようになってきた。日本の宗派のすべてについて私はある程度の知識を持っているが、それらのうちのどの宗派も我々に至福への道を示さず、むしろすべてのものは肉体と共に過ぎゆき、無に帰するものだと教える。しかし、私が宣言するキリストの教えは、そのようなことを教えない。なぜなら、キリストの教えは、唯一の真の神にして全世界の創造主なる御者を拝むことを命じ、同様に主君と両親を畏れ敬い、これに従うことと、さらに隣人をおのれと同様愛することと、その他十戒に示されている同様のことを命ずるからである。私はこれまで他のことについては、主君が私に求められることは、一度たりとも軽んじたりしなかったのであるから、私が私の教えに従って生きることを許してくださるよう彼に願う。もしこのことが許されるならば、高い禄高を与えられるよりも大きな恩恵だとして感謝するであろう。・・・略・・・
もしも我らが天なる主において誓ったのであるなら、我らは最早、たとえ身は打砕かれようとも、はたまた黄金の山や宝石を約束されようとも、偉大なる神に背くことはできないであろう。それ故に、主君が、私の教えを直ちに捨て去れと命じ給うのなら、私の命を差し出すより他はないだろう。ことに死が、キリストへの信仰告白のために特別の幸福をもたらしてくれるからには、私は自分の命を喜んで失うつもりである。それ故、私は貴方がたに願う。キリシタンなるが故に主君が私に死を給うのならば、私は何時なりとも刃向かうことなくこれを甘受し、わが身を荒縄でくくって刑場に引き行かせ、そこにて主君が命じ給う死罪をわが身に引き受ける用意はすでにできていると、そのように主君に伝えて欲しい。私は天なる主にかけて、また私の魂の至福にかけて、自分の言葉を守り抜くことを誓う。」
(熊谷豊前守元直・・・あるキリシタン武士の生涯と殉教 P47~P49)
メルキオール熊谷豊前守元直は名高い熊谷直実の子孫で、毛利輝元の最有力家臣の一人であった。熊谷は1587年九州征伐の時に黒田孝高の感化を受け洗礼を受けた。最初は信仰について深い知識が無く熱心ではなかったが、1600年の関ヶ原合戦後、主君毛利輝元に従って安芸の三入(みいり)の高松城(広島市安佐北区)を後にし山口に行った。そこで、圧迫されている教会の状況の中で新たに信仰の道を見いだし、教会に対する自らの責任を感じた。以来、信者の保護者となった。自分の知行(治めている土地)に小さな教会を建て、毛利輝元に相対して公然と信者として行動していた。1604年の萩築城の際に、熊谷は大名に従って萩に移った。教会の崩壊を望んでいた輝元は、このリーダーがいる限り自らの目的を果たせないことを知り、他の理由を設けて処刑を決めた。
熊谷は1605年8月16日の夜明け頃に、萩の屋敷で斬首されて殉教者となった。「この武士(熊谷)はよくイエスの御受難を黙想する人であった」と殉教録に記されている。
熊谷豊前守元直について、以下のように紹介されている。
熊谷豊前守元直(1555~1605)・・・あるキリシタン武士の生涯と殉教 H.チースリク著
(宣教師たちがローマ本部に送った書簡及びイエズス会年報から)
毛利(輝元)は、まずメルキオル(熊谷豊前守元直)を攻撃することを決心した。それは、もしもこの人物を打ち負かすことができさえすれば、もはや他の者たちは彼の意志にそむくことはできまいと考えたからである。そこで彼は三人の身分の高い人々を豊前殿のもとに遣わし、キリスト教を捨てて先祖のそれに従って生活するように要求した。しかし豊前殿は、勇敢に、恐れるところなく返答して、自分はあらゆることについて主君(毛利)に従い、忠誠を貫くであろうが、ただ、真の救い主なるキリストの教えだけはどのようなことがあっても棄てないし、そのためにはむしろ生命を投げ出すであろう。なおまた、もしも毛利がそのために自分の生命を召そうというのならば、刑吏たちに命じて自分を山口市中のすべての道路で三回引きまわし、この者はキリシタンであるがゆえにこの罰を受けるのだと公によばわらせてくれるように毛利に伝えて欲しいと願った。・・・(略)
使いの人たちが自分の言葉をそのまま毛利に伝えてくれるかどうか危ぶんだ彼は、毛利の秘密の相談役をしている何人かの友人に宛てて次のような内容の手紙を書いた。
「昨年の冬、何人かの名望ある人々から、私がキリスト教を受け入れたことで主君がどれほど私に不興を抱いているかを聞き知った。それゆえ私はこの手紙によって貴方がたに私の考えを説明すると共に、よい機会を見てこれを主君に伝えてくれるよう貴方がたにお願いする。十五年前、私は豊前の国において如水(黒田孝高)から感化されてキリシタンとなった。はじめのころは冷淡で不信心であったとはいえ、五年前から神の恩恵によって信心と熱心が私のうちに高まり、魂の救いこそ他の何物にもまして重大だということを、ますます理解するようになってきた。日本の宗派のすべてについて私はある程度の知識を持っているが、それらのうちのどの宗派も我々に至福への道を示さず、むしろすべてのものは肉体と共に過ぎゆき、無に帰するものだと教える。しかし、私が宣言するキリストの教えは、そのようなことを教えない。なぜなら、キリストの教えは、唯一の真の神にして全世界の創造主なる御者を拝むことを命じ、同様に主君と両親を畏れ敬い、これに従うことと、さらに隣人をおのれと同様愛することと、その他十戒に示されている同様のことを命ずるからである。私はこれまで他のことについては、主君が私に求められることは、一度たりとも軽んじたりしなかったのであるから、私が私の教えに従って生きることを許してくださるよう彼に願う。もしこのことが許されるならば、高い禄高を与えられるよりも大きな恩恵だとして感謝するであろう。・・・略・・・
もしも我らが天なる主において誓ったのであるなら、我らは最早、たとえ身は打砕かれようとも、はたまた黄金の山や宝石を約束されようとも、偉大なる神に背くことはできないであろう。それ故に、主君が、私の教えを直ちに捨て去れと命じ給うのなら、私の命を差し出すより他はないだろう。ことに死が、キリストへの信仰告白のために特別の幸福をもたらしてくれるからには、私は自分の命を喜んで失うつもりである。それ故、私は貴方がたに願う。キリシタンなるが故に主君が私に死を給うのならば、私は何時なりとも刃向かうことなくこれを甘受し、わが身を荒縄でくくって刑場に引き行かせ、そこにて主君が命じ給う死罪をわが身に引き受ける用意はすでにできていると、そのように主君に伝えて欲しい。私は天なる主にかけて、また私の魂の至福にかけて、自分の言葉を守り抜くことを誓う。」
(熊谷豊前守元直・・・あるキリシタン武士の生涯と殉教 P47~P49)
メルキオール熊谷豊前守元直は名高い熊谷直実の子孫で、毛利輝元の最有力家臣の一人であった。熊谷は1587年九州征伐の時に黒田孝高の感化を受け洗礼を受けた。最初は信仰について深い知識が無く熱心ではなかったが、1600年の関ヶ原合戦後、主君毛利輝元に従って安芸の三入(みいり)の高松城(広島市安佐北区)を後にし山口に行った。そこで、圧迫されている教会の状況の中で新たに信仰の道を見いだし、教会に対する自らの責任を感じた。以来、信者の保護者となった。自分の知行(治めている土地)に小さな教会を建て、毛利輝元に相対して公然と信者として行動していた。1604年の萩築城の際に、熊谷は大名に従って萩に移った。教会の崩壊を望んでいた輝元は、このリーダーがいる限り自らの目的を果たせないことを知り、他の理由を設けて処刑を決めた。
熊谷は1605年8月16日の夜明け頃に、萩の屋敷で斬首されて殉教者となった。「この武士(熊谷)はよくイエスの御受難を黙想する人であった」と殉教録に記されている。
12月16日、宇部支部出席。聖餐会で久しぶりに地元で話をした。クリスマスが近かったので、それにちなんだ内容にした。その中で、日本で最初に行われたクリスマスのついて、以下のように紹介した。
「1552[天文21]12月9日・・・周防◆西暦では12月24日のこの日、山口の宣教師コメス・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。
修道士のジョアン・フェルナンデスがデウス(神)の話を人々に聞かせ、疲れてくるとローマ字のわかる日本人信徒の少年が、かわりに朗読した。2人が話をやめると、日本人信徒たちはもっと創造主の話をしてほしいと催促した。一同は夜を徹してデウスを賛美し、翌朝、ふたたびミサと説教を聞いたのち、全員に食事がふるまわれた。
トルレスらにとっては来日して以来4回目のクリスマスだったが、この日はじめて日本人信徒とともに祝うことができた。これには、先にインドに戻ったフランシスコ・ザビエルが派遣し8月にインドから豊後の大友宗麟(良鎮、23)のもとに到着していた宣教師パルタザール・カーゴも列席した。トルレスは、最初の教会堂となる大道寺創建の許可を8月28日に大内義長から得ていたが、落成は3年後のことで、この日のクリスマスは仮住まいの司祭館で行われた。
こののち、カーゴらは京都に向かうが、山口は1556年毛利元就によって兵火にかかるまでの5年間、キリスト教布教の本拠となる。(クロニック[戦国全史](講談社)より)
その当時、まだ日本語で書かれた聖書がないために、宣教師の語る言葉は彼らにとって、神の事について学べる唯一の手段で、飢え乾いた霊を満たしてくれたのではないかと思います。現在、4大聖典の他に、リアホナを初めとして預言者を通して与えられた神の言葉があり、総大会の衛星中継で直接預言者が語る言葉を聴くことができ、祝福されていると感じています。」
「1552[天文21]12月9日・・・周防◆西暦では12月24日のこの日、山口の宣教師コメス・デ・トルレスらが、司祭館に日本人信徒を招いてクリスマスの祝を催した。
修道士のジョアン・フェルナンデスがデウス(神)の話を人々に聞かせ、疲れてくるとローマ字のわかる日本人信徒の少年が、かわりに朗読した。2人が話をやめると、日本人信徒たちはもっと創造主の話をしてほしいと催促した。一同は夜を徹してデウスを賛美し、翌朝、ふたたびミサと説教を聞いたのち、全員に食事がふるまわれた。
トルレスらにとっては来日して以来4回目のクリスマスだったが、この日はじめて日本人信徒とともに祝うことができた。これには、先にインドに戻ったフランシスコ・ザビエルが派遣し8月にインドから豊後の大友宗麟(良鎮、23)のもとに到着していた宣教師パルタザール・カーゴも列席した。トルレスは、最初の教会堂となる大道寺創建の許可を8月28日に大内義長から得ていたが、落成は3年後のことで、この日のクリスマスは仮住まいの司祭館で行われた。
こののち、カーゴらは京都に向かうが、山口は1556年毛利元就によって兵火にかかるまでの5年間、キリスト教布教の本拠となる。(クロニック[戦国全史](講談社)より)
その当時、まだ日本語で書かれた聖書がないために、宣教師の語る言葉は彼らにとって、神の事について学べる唯一の手段で、飢え乾いた霊を満たしてくれたのではないかと思います。現在、4大聖典の他に、リアホナを初めとして預言者を通して与えられた神の言葉があり、総大会の衛星中継で直接預言者が語る言葉を聴くことができ、祝福されていると感じています。」
12月15日、いよいよ階段に枕木の取り付けが始まった。結構手間のかかる仕事で、初日はあまり進まなかった。駐車場の方も、テスリ部分の杉板が取り付けられ、段々と完成に近づいてきている。
12月14日、現在内部木工事中。トイレ、洗面所、2階ホールなどの壁に杉化粧板を貼り、漆喰壁の部屋は下地であるプラスターボード(厚み12.5mm)を取り付け中。同時に階段、2階廊下の手摺(杉)の取り付け等を行っている。
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