毎日新聞山口地方版にミラクルをもう一度という特集が、3部に亘って掲載された。その中に玉国総監督と好永君の言葉があり、印象に残った。
 
元西鉄エース、池永正明さん(現・山口きららマウントG監督)率いる下関商は1963年のセンバツで優勝した。宇部商総監督、玉国光男さん(58)は当時、その下関商と互角に戦う宇部商の試合巧者ぶりに魅了され、進学を決意した。
 「柳井商工から来た故・菊永悦男監督の指導の下で、力をつけてきた時期でした」と玉国さん。64年に入学すると、翌年には主将として秋の中国地区大会でベスト4進出を果たした。準決勝で邇摩(島根)に惜敗したが、中国地区3校目の代表校として春夏通じて初の甲子園出場を決めた。
 しかし開幕前に発売された雑誌のセンバツ特集は最低の評価である「Cランク」。前評判は最悪だった。初戦の前日。菊永監督はナインに向かい「試合の後、早く山口に帰れるよう荷物をきちんとまとめておけ」。この一言が硬くなっていたチームの雰囲気を変えた。ナインは緊張や重圧を感じることなく、いつもの伸び伸びプレーを展開。快進撃を続け、ベスト4入りした。
 準決勝で後に春夏連覇を果たす愛知の中京商(現・中京大中京)と対戦。延長十五回までもつれ込む接戦で歴史に残る名試合を繰り広げた。試合時間はセンバツ史上最長の4時間35分。試合に敗れはしたが、菊永監督のさい配はここでも際立った。好機で積極果敢に動き、大舞台で選手を信頼する。玉国さんは選手として、主将としてそばで見て学んだ。
 卒業後、玉国さんは社会人野球などの選手、コーチを経験。75年、宇部商の監督に就任した。原点は高校時代に体にたたき込まれた「菊永野球」だ。
 以来31年間、選手の育成に全身全霊を傾けた。土壇場での強襲策で数々の逆転劇も生み出した。春5回、夏11回も甲子園に導き、通算24勝。「ミラクル宇部商」の名を全国にとどろかせた。
 昨年7月、教え子の中富力さん(41)に託し、一線から退いた。今ではグラウンドに顔を見せることはほとんどない。が、やはり気になる。ともに宇部商野球を支えてきたコーチの藤井久夫(57)さんから時折、チームの近況を聞いては球場で観戦する。それが楽しみでならない。
 今年のチームは選手時代のチームと似ているという。秋季大会では苦戦続きながら九回に逆転。センバツ出場も中国地区の3番目に滑り込んだ。青春時代に思いをはせながら期待を込める。「宇部商はなぜか3位で出ると活躍する伝統があります。ベスト4進出、いやそれ以上を目指してほしい」
毎日新聞 2007年3月22日

宇部商は80年代、黄金期を迎えた。だが90年代に入ると岩国や下関中央工、西京などの強豪校が台頭。甲子園でのベスト8入りはもちろん、出場も容易ではなくなった。
 そんな状況下にあって05年、春夏連続で甲子園に出場。その立役者の一人が技巧派左腕エース、好永貴雄さん(19)=現・西濃運輸(岐阜県大垣市)だ。夏は県勢20年ぶりのベスト4進出を果たし、県大会から計10試合を完投した。
 しかしここまでの道のりは平たんではなかった。センバツ2カ月後、肩を故障。約1カ月間、大分県内の治療院に通った。治療中、ナインから携帯電話によくメールが入った。「試合にまた負けた」。チームは苦戦続きだった。「夏までには絶対…」。焦りながらも下半身強化のための基礎練習だけは続けた。
 そして迎えた夏の県大会で、久しぶりの登板。自分でも驚くほど肩が軽く、球も走った。けがの影響を全く感じさせない投球内容に、当時の玉国光男監督(現・総監督)も「これなら大丈夫だ」と確信した。
 しかし思わぬアクシデントに見舞われる。準々決勝(岩国戦)延長十三回、右腕に打球を受けたのだ。「また、負傷か」。ベンチで治療を受ける好永投手を心配そうに見守るナイン。球審が玉国監督に駆け寄り、投手交代を促した。玉国監督はきっぱり言い放った。「うちには好永しかおらん」。この一言に奮い立った。結局、延長十五回を1人で投げ抜いた。しかも自らの決勝打で勝ち越し、熱戦に終止符を打った。
 その後の夏の甲子園では快進撃を続けた。が、試合後は決まって栄養剤の点滴が待っていた。準決勝で京都外大西(京都)に敗れはしたものの、夢舞台で投じた球数は692球にのぼった。
 卒業後は、中部地区の社会人野球の強豪、西濃運輸に入社。同社野球部でプロ入りを目指す。
 センバツは23日、いよいよ開幕した。「失敗してもいいという気持ちで思い切りプレーしてほしい。野球は9人でやるもの。1人がミスしたって8人でカバーすればいい」と好永さん。後輩のほとんどは05年夏の甲子園をスタンドから見つめた。彼らの必死の声援が力投につながった。
 「今度は僕の番ですね」。25日の日大藤沢(神奈川)戦ではスタンドから思い切りエールを送ることにしている。
毎日新聞 2007年3月24日