●足跡の業績

  1800年12月7日、日本を形作るための一歩が踏み出された日です。
 
  かの有名な「伊能忠敬」、齢56の時でした。
 
  伊能忠敬のイメージを聞くと「日本地図を作った人」
  という答えが返ってくることが多いですが、
  そんな彼の過去を辿ると、意外な素顔が見えてきました。

  生まれは上総国、幼名を神保三治郎と言います。
 
  子どもの頃は算学、医学などを学んだとても頭の良い子だったそうです。
 
  18歳で代々名主であった伊能家に婿養子に入りましたが、
  その当時の伊能家は衰退し、危機的状況でありました。
 
  しかし忠敬は本業である酒造りに加え、
  徹底した倹約、薪問屋、水運業、米取引の仲買などを行い
  10年ほどで経営を立て直したのです。
 
  彼には商人としての才があり、
  また、地域の長のような役職も任されていたそうです。
 
  さらに、1783年の天明の大飢饉では私財を投じて人々を救うなど、
  地域でも評判の名主でした。

  さて、そうして約30年間仕事を続けた後、
  50歳になる頃に家業を息子に譲り、
  かねてから興味を持っていた天文学を学ぶために江戸に入ります。
 
  弟子入りしたのは当時の天文学の第一人者、高橋至時32歳、
  忠敬51歳の時の弟子入りでしたので19歳も年下の師匠です。
 
  しかし、忠敬は昼夜を問わず勉学に励み、
  その姿は周囲の尊敬を受けるほどでした。
 
  そしてかねてからの疑問であった
  「地球の大きさはどれほどか」を解くために、
  まずは江戸から蝦夷地までの距離を測る必要がありました。
 
  しかし、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要です。
 
  その許可を得るために考えた方便が「地図を作る」というものでした。

  その後18年以上の歳月をかけ作り上げた日本地図は、
  始めの許可は東日本のみ、しかも自費による作成でした。
 
  しかし完成し、献上された東日本の地図の出来が
  あまりに素晴らしかったことに幕府が驚き、
  残りの日本地図作成を国家事業として認めたことから
  大きな後ろ盾を得ることになったのです。
 
  そうして出来上がった日本地図は、忠敬の死後訪れた、
  日本を「文明の後進国」と考えていたイギリス海軍を仰天させ、
  考えを改めさせたとの逸話もあります。
 
  ひたむきに、丁寧に、熱い心で取り組む姿が、
  師を動かし、幕府を動かし、国をも動かしたのだと思います。
 
  一人の男のロマンが描き上げた日本の「姿」が色褪せぬよう、
  私達も歩みを続けなければなりません。
 
  彼の姿無き今も、彼が踏みしめた足跡が、
  大切なことを教えてくれているような気がします。
 
  (あるる)