●ミス・ハンサム

  先週6日からNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まりました。
 
  幕末のジャンヌ・ダルクと言われた主人公、
  新島八重の生き様を描いています。
 
  八重は同志社大学創立者の新島襄の妻として知られ、
  激動の明治時代を男勝りで枠にとらわれず生きていきます。
 
  そして、皇族以外の女性として、
  初めて政府より叙勲を受けた先進的な女性です。
 
  すでに大河ドラマをご覧になられている方も多いかもしれませんが、
  今回は新島八重という女性について簡単にご紹介致します。

  1853年(嘉永6年)、黒船来航により開国に追い込まれ、
  急速に幕府の力が弱まりつつある江戸末期、
  八重は会津藩(現在の会津若松市)の砲術師範
  山本権八と佐久の娘としてこの世に生を受けます。
 
  当時女性はおしとやかに振る舞うような時代ですが、
  八重は裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、
  特に実兄の覚馬(かくま)から洋式砲術の操作法を学び、
  13歳の時には四斗俵を肩に乗せるほどの力持ちになります。
 
  さらに1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に、
  薩摩・長州藩らを中核とする新政府軍から
  逆賊として扱われた会津藩でしたが、
  籠城戦になった際には、八重は断髪・男装で
  7連発のスペンサー銃を持って銃撃戦に参加しました。

  明治維新後は京都にいる覚馬を頼りに上洛し、
  開国したばかりの明治初期にも関わらず、
  英語とキリスト教を学び、
  銃ではなく学問という新たな武器を手にします。
 
  さらに、帽子や洋服を着こなし、洋装の女性として
  新たな一歩を踏み出すこととなります。
 
  そして、同じ頃、覚馬の元に出入りしていた
  アメリカ帰りの新島襄と知り合い、1876年(明治9年)には、
  京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式を挙げました。
 
  また、封建的な風潮が残る当時の日本で
  夫を「ジョー」と呼び捨てにし、
  夫より先に車に乗る(レディファースト)など、
  先進的な文化を積極的に取り入れます。
 
  まわりの意見を気にも留めず、
  男女平等を望むスタイルを貫く八重に、
  襄は米国の友人への手紙で
  「彼女の見た目は決して美しくはありません。
  ただ、生き方がハンサムなのです。
  私にはそれで十分です」と書いています。

  八重の人生は波乱万丈でしたが、故郷会津で学んだことと、
  京都で身につけた西洋文化を上手く融合し、
  新たな女性像を生み出しました。
 
  自身が貫く誇りと、良いものは取り入れるといった
  柔軟な姿勢からは、現代人に欠けてしまっている何かを
  学ぶことができると思います。
 
  新島八重のことを知って大河ドラマを見ると、
  また違った面白さがあるかもしれません。
 
  (あるる)