~あの時、この人~「油屋 熊八」            
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  JR九州日豊本線の駅であるJR別府駅東口に
  「子供たちをあいしたピカピカのおじさん」
  と書かれたブロンズ像が建っています。

  この人物が油屋熊八(あぶらや くまはち)です。

  油屋熊八は1863年愛媛県の米問屋に生まれ、
  小さい時から働き者で有名でした。

  30歳の時に大阪に出て、米相場で成功し巨万の富を手にしたことから、
  つけられたあだ名は“油屋将軍”でした。

  その後35歳の時に米国に渡り放浪の上、
  現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後に帰国、
  46歳の頃に温泉地として飛躍的に発展していた別府温泉へ移り住み、
  ホテル経営を始めました。

  「旅人を懇ろにせよ(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)」
  という新約聖書の言葉を合言葉に、サービス精神の実践として
  亀の井旅館(現在の亀の井ホテル)を創業し、
  やがては世界のお金持ちを迎える一流ホテルに成長させました。

  続いてバス事業にも進出し、日本初の女性バスガイドによる
  案内つきの定期観光バスの運行も開始しました。

  他にも自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路の原型でもある
  別府~長崎間の観光自動車道を提唱して、
  そのルート上にホテルを開設しています。

  このように、彼は米国で目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践し、
  「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズを考案して、
  このフレーズを刻んだ標柱を富士山山頂付近に建てたのをはじめ、
  当時は誰も思いつかないような奇抜なアイデアを次々に実行していきました。
 
  今でこそ観光地の売り出しや開発には公費の支出が当たり前になりましたが、
  当時の別府温泉の宣伝は全て熊八個人の私財と借財で賄われました。

  そのため熊八の没後、
  亀の井自動車や旅館は借金の返済のため売り払われましたが、
  その行動力と独創力に敬意を込めて
  「別府観光の父・別府の恩人」として慕われ、
  別府市民らで「油屋熊八翁を偲ぶ会」が作られ、
  2007年にはその偉業を称えてブロンズ像が建てられました。

  生前の彼の周りには別府観光に尽力する人々が集まり、
  みな子供達が大好きで「オトギ倶楽部」を結成し、
  子供達に童話・歌・演奏を聞かせたりしたことから、
  熊八は「ピカピカのおじさん」と呼ばれていました。

  このブロンズ像は片足で両手を挙げ、
  熊八がまとうマントには小鬼が取り付いています。

  これを制作した彫刻家によりますと、
  天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけているイメージだそうです。
  
  熊八の情熱をかけた別府温泉での人生から、
  私たちも学ぶべきものは多いようです。

  (アルフィックス日報)