●あの時、この人 福沢諭吉
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  1835年1月10日、摂津国大坂堂島浜にあった
  豊前国中津藩の蔵屋敷で誕生しました。

  翌年に父親が死去、中津藩に帰郷し幼年を送ります。

  5歳頃から漢学と一刀流の手解きをうけはじめ、
  8歳になると塾、晩香堂に通い始めます。

  論語、孟子、詩経、書経、史記、左伝、老子、荘子などを勉学、
  立身新流の居合術も習熟しました。

  このように諭吉の学問の基礎は儒学です。

  19歳で長崎にて蘭学を学び、21歳には大坂の適塾で住み込み学生となります。

  23歳で江戸の中津藩邸での蘭学塾の講師を命じられ、上京しました。

  1959年、日米修好通商条約で外国人居留地になった横浜見物に出かけた折、
  オランダ語を学んだ諭吉には英語が読めず英語の必要性を痛感します。

  1860年、咸臨丸にて艦長木村摂津守の従者として渡米、
  指揮官には勝海舟もいました。

  1862年には渡欧、香港、シンガポールを経てマルセイユ、リヨン、パリ、ロンドン、
  ロッテルダム、バーグ、アムステルダム、ベルリン、ベテルブルグ、リスボン
  などを訪れました。

  1968年、江戸開城後は求められても官職に就かず、
  帯刀をもやめて平民となりました。

  蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念します。

  「学問のすすめ」をはじめ、数多くの著書や名言を残し
  1901年2月3日に永眠されました。

  顔色や容貌をいきいきと明るく見せることは、
  人間としての基本的なモラルである。
  なぜなら人の顔色は家の門戸のようなものだからである。
  広く交際して自由と付き合うには、門を開き入口を清楚にし、
  客が入りやすくする事が大事である。
  ところが、本心は人と交際を深めたいのに顔色に意を用いず、
  孔子の格言を信じてことさら渋い顔つきを示すのは、
  入口にガイコツをぶら下げ門前に棺桶を置いているようなものである。
  これでは、誰も近づかなくなる。

  古典の古事記を暗記していても、こんにちの米の値段を知らないでは、
  日常生活の知識すらない男というほかない。
  中国の古典の奥義をきわめても、商売のやり方を知らず、
  取引ひとつできぬようでは、収支の知識の問屋にすぎない。
  それではめし食べる辞書であり、国のためには無用の長物。
  国家経済にとっては、有害な穀潰しと言っていい。

  2つ、名言をご紹介しました。
 
  一万円札には福澤諭吉が印刷されています。

  新春にあたり、一万円札と仲良くするには、
  諭吉の著書や名言を読み返してみるのも良いかもと思ったしだいです。

  (アルフィックス日報)