●あの時、この人 「ロバート・オッペンハイマー」  
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  マンハッタン計画。

  第二次世界大戦中、枢軸国の原子爆弾開発に焦った米国が、
  原子爆弾開発・製造のために科学者や技術者を招聘した計画です。

  その後の歴史が語るように、計画は成功、
  製造された原子爆弾は8月6日に広島、8月9日に長崎に投下され
  合計数十万人の犠牲を生み終戦。

  またその後の東西冷戦の構造を、つくるきっかけにもなりました。

  当初の開発本部がマンハッタンにあったことが、
  計画の名の由来になっています。

  この計画の科学リーダーを務めていたのが、
  後に「原爆の父」と呼ばれる
  ロバート・オッペンハイマー博士(米国)でした。

  すでに理論物理学で世界的な業績を上げていたオッペンハイマーは、
  原爆製造チームを主導しました。

  彼は強力すぎて世界に使うことのできない兵器を見せて、
  戦争を無意味なものにしようと考えていました。

  しかしながら、ドイツが原子爆弾製造を頓挫し脅威が去った状況でも、
  計画の責任者であったレズリー・グローブス准将は
  それを隠蔽、原子爆弾の完成を急がせました。

  そして人類は新兵器の破壊力を目の当たりにしても、
  それを使用してしまいました。

  『科学者は罪を知った』。

  後にオッペンハイマーはこう述懐しています。

  米国も日本も大戦末期は盲目的な状況下にあり、
  個人の想いなどはるかに及ばないところで力が働いていました。

  またオッペンハイマーは、当時の大統領トルーマンにこう言っています
  「大統領、私の手は血にまみれています。」

  トルーマンはきれいに折りたたまれた白いハンカチを取り出し、
  「これで拭きたまえ。」と言ったそうです。

  その後オッペンハイマーは、水爆開発の反対運動や
  日本人の学者が米国で研究できるよう尽力するなどしましたが、
  計り知れない大きな十字架を背負ったまま、62歳で生涯を閉じます。

  世界はゆるやかにですが、他国の領土・領海に
  手を伸ばすことが増えてきました。

  またテロという根絶が極めて困難な、
  局地的で一方的暴力が広がってきており、
  また世界に新たな戦争の種が成長してきていると思えます。

  そして日本も、それに合わせて憲法を改正する方向へと
  足を踏み出しつつあります。

  力が全く必要ないとは思いませんが、
  力には制御できるバランスと別の力が同時に必要となります。

  日本人にとって、8月はとても特別な意味をもちます。

  8月6日広島、8月9日長崎、そして8月15日終戦。

  世界がどのように変わっても、日本にとって変わらず
  大切にしなければならないものに
  思いを馳せるときではないでしょうか。

  (アルフィックス日報)